ユニクロが破壊するのは
「価格」だけではない



「日本はどんどん悪い方向に行っています。岐路に立っています。(殻に)閉じこもり、古いものばかり懐かしむ。日本そのものが年とった証拠ではないでしょうか。人間と同じで、体力が弱ると保護主義的な風潮になるが、それで成功している国はありません」
「建設業や金融などのように、保護された産業はますます体質が弱まります。そして結局、損するのは消費者なのです」
 カジュアルファッション店の「ユニクロ」の売上急増に対して、国内の繊維業界は政府に輸入制限を求めているという。これが実施されれば、海外生産品の輸入が制限されるため、中国で製品をつくり輸入しているユニクロは打撃をうけることになる。
 冒頭のコメントは、そういう動きに対して、ユニクロを展開するファーストリテイリングの社長が語った記事の一部だ。(「毎日新聞」01年1月30日朝刊)
 なんか、前にも同じような意見があったな……と思い出したのが、コメの輸入自由化を訴えた人たちの主張だ。
 いまから10年くらい前、こんな意見をよく耳にした。曰く、日本の農家は、保護政策によって手厚く守られている。そしてけっきょく、消費者は高いコメを食べさせられている。海外でつくられるコメは、いまではかなり品質もよく、そして安い。そういうものを輸入して、安くて美味いコメを食べられるようにすることが、消費者にとっての利益だ……。
「競争原理によって、良いものを、安く提供することが、消費者の利益となる」という意味で、ユニクロの社長の発言もコメ輸入賛成派の意見も、意図するところは同じだろう。
 みなさんは、これらの意見をどう思われるだろうか?

 ぼくはこの意見には賛成できない。なぜなら、「安ければそれでよい」とは短絡できないからだ。
 第一に、安さには必ずカラクリがある。そのカラクリは、多くの場合は、下請なり労働者を安くこき使うことだ。
 ユニクロの場合、主に上海の企業に、製品の企画から原材料、製造方法についていっさいを指定してつくらせて、その全量を仕入れるそうだ。取引条件はあくまでもシビア(納期の遅れなどは一切認めない)、発注額も取引企業にとっては「仕事がないよりはマシ」という程度、したがって労働条件はかなりひどい、といわれる。(「サイゾー」01年2月号)そういう環境でつくられた製品を、「安いから」と歓迎することはできない。
 第二に、ユニクロのやり方は、日本にある繊維とか服飾の文化を破壊する。少し前までは、和服を仕立て直したり、雑巾を縫ったり、裾上げをしたり、簡単な繕い物をしたりは誰でもしていた。それができる服を着ていたし、素材にしても木綿なんかはいろいろなものに転用することができた。ユニクロのフリースやポロシャツでは、そういった手技は活かせない。活かせないから、次の世代に伝承できない。
 もっとも、これは着る側の人々の嗜好と、生活様式が変化したからであって、ひとりユニクロが悪いわけではない。
 とはいえ、もっと大きな目で見れば、輸入製品の増加と後継者不足ですでに厳しい状況にある国内の繊維産業が、ユニクロによってとどめを刺されてしまえば、繊維製品をつくる拠点は海外へと移っていく。そうなると、繊維製品のデザインや縫製の技術などを身につけ、後世に伝える労働者(技術者)は国内からやがていなくなる。そうして日本国内から繊維産業の技術者も、技術も、失われてしまっていいのか。
 また、やがて、パンツから上着までのほとんどを海外生産品を身につけるようになったとき、何らかの事情、たとえば海外から買い付けるだけの資金力が日本になくなったとか、紛争が起こったなどで、製品の輸入ができなくなったらどうするか。国内ではもう製造することができないという事態になったらどうするか。
 同じ疑問が、コメにもある。「安い」輸入米が出回れば、国内のコメ農家が減り、コメをつくる技術、文化は衰退する。田は荒れて環境は乱れる。そんな後に世界的な食糧危機でコメが買えなくなったらどうするのか。あるいは、他国からコメを買ってくるだけの財力が日本になくなったらどうするか。そのとき日本には、備蓄も技術も人手もないのだ。
 コメを輸出する側にしても、東南アジアの国では、主食にしている長粒米でなく日本に売れる短粒米をつくる量が増える。するとその国での長粒米の流通量は減り、低所得層の人々は口にするコメを手に入れにくくなる。農業技術も「日本向け」のものへと変化する。そんなところに、天候不順や農地の疲弊で不作という事態が訪れたらどうなるか。食うものがない、売るものもない、つくる技術もない、ということになりかねない。こうして、その国のコメ作り文化はめちゃくちゃになってしまう。
 このたとえ話は悪い面だけを単純化したもので、別の意見があるのは承知している。
 ぼくがいいたいのは、コメにしても繊維産業にしても、価格という一本の物差しで計っただけで「合わないから」と切り捨ててしまっていいのか、ということだ。大事にしないといけない文化まで失ってしまう可能性が大きいぞ、ということだ。

 第三に、そういったいろいろなことを考えないで、「安い高い」ばかりに一喜一憂している消費者の側の考え方に、違和感を覚えるのだ。
 先行きが不透明な時代、デフレの時代といわれ、値段が安いことが歓迎されている。経済は停滞し、家計もラクではない。将来がどうなるかもまったく読めない。そんな折りだから、自己防衛として支出を抑えたい気持ちもわかる。同じ買い物をするのなら、安いほうを選ぶのはぼくだって同じだ。
 ただ、モノには適正価格というものがある。原材料の原価、労働者の賃金、流通コストなどを積み上げていけば、採算に乗る価格が導き出される。そして、その価格が維持されることで、メーカーなり生産者は再生産が可能であり、経営を維持することができるのだ。
 では、フリースの適正価格はどのくらいなのか。ポロシャツの適正価格は? Gパンの適正価格は? あるいはコメの適正価格は?
 そういう観点を、もうそろそろ、ぼくたちは持たないといけない。他と比べて安いか高いかだけでなく、「この価格で再生産は可能なのか」「この低価格の理由は?」「どこかにしわ寄せは寄っていないか」という目安も持たないといけない。
 単純化して言ってしまえば、モノを安く買うことは、そのモノを売る側の人たち−−販売や流通、製造(生産)に携わる人たち−−への支払いが安いということだ。立場を替えれば、モノを売る側の人たちの収入が少ないということだ。つまるところ、安く安くと言っていると、自分自身の労働力も安く買われる(賃金が安くなる)ことになる。
 あなたは「それでもいい」だろうか。

 ぼくは印刷に関連する作業を自営で行っている。最近、見積もりをしても料金が折り合わないことが増えてきた。「これくらいでできないか」といわれる料金が、作業内容に見合わせると、まったく折り合わないケースもよくある。その仕事ばかりしていたら、ぼくの生活は維持できないというくらいだ。「それでも何もしないよりはましだよ」と、同業者からはよく言われるが、ぼくの気持ちの中では、自分の作業内容を汲まずに買いたたくような相手の仕事はしたくない、という思いも強い。
 だけど現実には、目先の売上げのためにそういう仕事でも引き受けたりする。そして、「安ければそれでいいのか」という思いが、ますます強くなっていくのだ。

 ユニクロという店が、創意と工夫を発揮して成功し急成長する、そのこと自体を非難するつもりはない。しかし、もはや業界の動向を左右するほどの巨大企業となった以上は、自社の経営のみに視点をおくのは無責任だ。
 かつて巨大スーパーは、「消費者の利益」を謳いながら次々と出店してきた。町の中小小売店を「値段が高い」「営業努力が足りない」と批判してきた。また消費者のほうも、便利だからとスーパーに足を運び、そうして町の商店街は衰退した。やがて、巨大スーパーが経営に行き詰まるなどの自分の都合で店を閉めたとき、地域の人々は買い物をする店を失った。こういう例はあちこちにあるだろう。
 いくら「消費者の利益」を唱えたところで、けっきょくは最優先されるのは「企業の利益」だ。そこには、地域を破壊したことへの責任も、地域の人々の利便性を奪ったことへの反省も見られない。消費者を口実にして利益追求をしているに過ぎない。
 スーパーが出店するのはいい。でもそれには、地元の小売店とも利害調整をし、ともに栄えていけるような、「弱肉強食」ではなく「共存共栄」でいけるような方策をとらないといけない。多様な選択肢があり、もしものときにも代替策が用意されていることが、本当の意味での「消費者の利益」なのだ。
 ユニクロも、消費者の利益をうたってはいるが、巨大企業体としての責任を充分に意識しているのか。日本の繊維産業を代表する企業としての自負を持っているのか。「自分は独自に成長する。他の国内繊維産業はどうなってもいい」と思ってはいないか。そんな疑問を強く感じる。

 このような理由で、ぼくはユニクロの経営者の発言を支持しない。はっきりいって、冒頭の発言は「おごり」だ。

(2001年6月・74号)

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