「オウム」よりも怖いその周辺



 オウム真理教(現アレフ=「オウム」と記す)にいわゆる「オウム新法」が適用された。
 その法律の具体的な内容や、適用で「オウム」がどうなるのかは、不勉強でよくわからない。ただ、団体としての活動はかなり制限される、というよりほとんど解散に等しい状態に追い込まれるとあちこちに書かれている。
 憲法で「結社の自由」(21条)が認められているにもかかわらず、こういう法律が施行されたことに、ぼくは漠然とした不安を感じる。それにもまして、前後しておこなわれた一方的なマスコミ報道と、それを無批判に受け入れる風潮に、不安を通り越した恐怖のような感情をいだいた。
 それがどういうものか、問題提起をしたい。


 まず1つは、「オウム」に対しては何をしても構わないのか、ということだ。
 たとえば、かつての広報部長・上祐さんが広島の刑務所を出所したときの騒動。マスコミはこれを「迷走」などと表現したが、そもそもマスコミが追いかけ回したから大捕物みたいになったのだ。いまの広報の荒木さんが池袋に移ろうとしたときも同じ。
 こういうかたちで、その時点も現在も容疑者でも何でもない荒木さんや、刑期を務めて出所した上祐さんを、犯罪者を追うかのようにマスコミが群れなして追いかけ回すのは、どういう根拠からか。

 あるいは、麻原某の子どもを誘拐したとかで信者が逮捕されたと報道されたが、それに関与したとされる信者はけっきょく不起訴となった。つまり、「オウムは危険だ」と言いふらしている警察も、あれを犯罪と認めることはできなかったのだ。
 にもかかわらず、マスコミはこの「えん罪」を報道してことについて謝罪をしていない。「オウム」に対しては、謝罪も訂正も不要ということなのか。

 別の面では、全国のあちこちの自治体が「オウム」信者受け入れ拒否を表明し、じっさいに住民票を受け付けないところもある。
 そこに住む人たちに「オウムにきてほしくない」という心情があるのはしかたない。ぼくだって、同じアパートに「オウム」の部屋があったらいやな気分だろう。
 だけど、自治体というのは、法律にのっとって運営されるものではないか。特定の宗教の信者の住民票は拒否して良いと定めた法律はないはずだ。
 法律の原点には憲法があって、憲法には「思想の自由」(19条)、「信教の自由」(20条)、「居住・移転の自由」(22条)が明記されている。ならば、「オウムはだめ」というのは憲法違反、違法行為ではないか。
「オウムは怖い」という住民感情があるからといって、自治体が違法行為をしていいとは考えられない。こういう自治体の行為に疑問を覚える。

 さらに、この違法性には触れないで「各地で反オウムの声あがる」とだけ報道するマスコミもおかしい。
 たとえてみれば、史上稀に見る犯罪者がいて、本人は逮捕されたとする。両親や兄弟は、地元に住み難くなり転居を考えたが、転居先の自治体に住民票の移動を拒否された。その理由は、「犯罪者の家族だから」。犯罪者を生み出す要素がこの家族にはある。だから受け入れることはできない−−。
 こんな理屈は成り立つだろうか。


「『オウム』の信者は脱会することができるが、犯罪者の家族は家族をやめることはできない。この2つを同一視するのはおかしい」という見方もできる。でも、そこで2つ目の疑問が沸き上がる。
 それは、信者は「オウム」を脱会すれば免罪されるか、ということだ。

 雑誌などで目にした話では、脱会した信者の元にも警察が近づいているそうだ。警察関係者が元信者の就職先を訪れ、オウムの信者だったことを漏らしたため解雇されたとか、そういう話もあるという。
 極端にいえば、広報の荒木さんが「もうや〜めた」と記者会見したら、彼は翌日から無罪放免となるか。そんなことはまずないだろう。相変わらず警察関係者に追われ、マスコミに追われ、世間から白い目で見られるだろう。
 この伝でいけば、「オウム」に関わった人は、いつまでもその経歴を問われなければならない。そんなことが許されるのだろうか。

 また、ぼくは無宗教だからいまひとつ判断できないのだが、麻原某の恐怖支配がなければ、「オウム」の教義そのものは危険ではない(かつての教義の危険な部分は封印した)という意見を耳にしたことがある。カルト集団としての危険性が教義そのものにあるのではないというわけで、ぼくもそうだろうという気がする。
 としたら、現在「オウム」を信仰するからといって、即危険人物であるとはいえないだろう。そういう観点を抜きにして、「オウムはダメ」と言い切る根拠はどこにあるのか。

 整理すると、「オウム」にいる(いた)ことじたいが悪なのか、「オウム」の教義が悪いのか、教団組織の運営が悪いのか。カリスマ教祖に罪があるのか、それとも信者一人一人に罪があるのか。また悪い悪くないを誰が決めるのか。
 そのあたりを曖昧にしたまま、「オウム」を糾弾している。これじゃ魔女狩りと同じ構図で、アブナい風潮だ。


 3つ目は、「オウム」はもはや、どんなことをしても存在が許されないのか、ということだ。
 昨年後半から最近まで、「オウム」が休眠宣言をしたり、被害者への謝罪や補償を表明するたびに、「新法逃れの口実」と報道されていた。警察筋の言い分そのままの報道だ。まるで「オウム」は新法から逃れてはいけない、新法を適用すべきだ、と言っているみたいだった。
 表明した時期からして新法逃れだとしても、もしそれが本心からの謝罪であれば、それはそれで容認すべきではないか。「いままで知らんぷりしていて、しらじらしい」といえばそのとおりだ。遅すぎるとぼくも思う。ただ、「遅すぎるからもう許さない」と切って捨てるのでは、関係者が心を入れ替える機会が失われやしないか。

 犯罪者を拘置所で拘禁するのは、犯した罪と同等の苦しみを与えるのが目的ではなく、その罪を反省させ更正させることが目的だ、とどこかで読んだ気がする。
 その考えにたてば、「オウム新法」が抑止力となって、「オウム」に更正の意志を持たせたとはいえないか。
 断言できないとしても、そういう見方もできる以上、「オウム」の言動を冷静に見つめる視点も必要ではないか。「ダメなものはダメ」と決めつけるのは一方的すぎないか。


 4つ目は、以上のような意見を述べると、「じゃあオウムは生かしておいていいのか」と非難を浴びるのではないかと、とても不安を感じている。これって、おかしくないか。

 麻原某を中心としたオウム真理教の幹部らが、あの一連の犯罪を犯したのはまず間違いないのだろう。
 とはいえ、裁判を経て量刑が確定するまでは「推定無罪」(有罪と見なさない)が原則だ。この「推定無罪」の原則が、なし崩しになっている。
 犯罪者集団、危険団体と決めつけ、「オウム」を世の中から抹殺しようとしている。擁護するような意見を述べようものなら、「オウム」の回し者と疑われる。

 そうではない。ぼくは「オウム」についてはもっと冷静に考えなくてはいけないと言いたいだけだ。

 もちろん「オウム」はそれなりの対応をすべきだし、裁判の結果に従って負うべき罰は負ってもらわないといけない。その代わりに、ぼくらは憲法をはじめとするルールにのっとって「オウム」に対さなければいけない、と主張したいのだ。
「法を犯した者には、法にのっとった対応は不要だ」というなら、法治国家とはいえない。

 そもそも住民票を受け付けないとか、出てけとかいって、「オウム」を排斥しようとしたって、なんの問題解決にもならない。
 オウム真理教がなぜ犯罪を犯すようになったのか、そんな集団に入信する者が後を絶たないのはなぜか、オウム真理教のどこに魅力があったのか、つまりなぜ人はオウム真理教に走ったのか。たとえば「現世に希望がもてないからオウムに救いを求めた」というような下地があるはずだ。
 そういった下地を明らかにし、犯罪集団が生まれてくる土壌そのものを改めない限り、第2、第3のオウム真理教は発生する。たんに「ここから出てけ」と言って済む問題じゃない。この点ははっきり認識しないといけない。

 ぼくにしても「オウム」を信用しているわけではない。やっぱりどこかあやしい感じがする。
 でも、確かな理由や拠って立つ根拠もないまま、感情にまかせて特定の集団を囲い込み追いつめようとしているマスコミや世間は、もっと不気味だ。

(2000年2月・66号)

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