気分はアミーゴ!



 まだ人通りも少ない朝6時半、綾瀬駅前でぼくは原君の車を待っていた。脇には20キロほどの荷物が入ったザックが1つ。スリーピースのパドルがそのポケットから先端を覗かせている。
 やがてワゴン車でやってきた原君は、前夜深酒したとかで眠たそう。「もっとゆっくり来ればいいのに」とぶつぶつ。荷物を積み込み、とりあえず内田の家に向かう。
 スタンバってた内田はTシャツ姿だ。こっちは長袖のシャツにマウンテンパーカーを羽織っている。11月も半ばだというのにアホなヤツだと思う。その姿が正解だったことに気づくのはもっとあとだ。
 内田が運転を代わり、ぼくは助手席、原君は後部座席で居眠りを始める。車には3艇のカヌーがぎゅうぎゅうに積み込まれ、バックミラーが役に立たない。 
 今日は11月13日土曜日、言わせろカヌー部の遠征の日、そしてぼくのカヌーの進水式だ。

 首都高速から湾岸道路、東関道へと、3人と3艇を乗せた車は順調に走る。内田は最近仕事で千葉のあちこちを訪れているので、ナビゲーターとしてのぼくの出番はほとんどない。近況やらを話しているあいだにもどんどん走っていく。
 本日の目的地は、房総半島のほぼ真ん中に位置する亀山湖だ。言わせろカヌー部では以前遠征したそうだが、部長の内田に言わせれば「水が臭い」からあまりいいフィールドではないとのこと。どうも水質が良くないらしい。「中禅寺湖だったら水は澄んでいるし、紅葉もきれいなのに」と、内田は運転しながらも不満の様子。しかし、直前に日光には初雪が降っている。中禅寺湖の水温も推して知るべし。そんなところに遠征をして、万が一ひっくり返ったら命にかかわる。自前のカヌーの進水式で、そんな危険を冒したくない。
 目的の公園を探して少し迷ったりしたものの、10時前には亀山湖に到着した。ブラックバス目当ての釣り人がたくさんいて、しきりにロッド(リール竿)を振っている。空は雲一つない青空。先日までの冷たい雨が嘘のようだ。

 ぼくら3人はそれぞれも荷物を降ろす。眠りから覚め復活した原君は、さっそく缶ビールを取り出して「乾杯!」。まだ何もしてないのに。
 内田と原君の船はフォールディングボートといって、フレームを組み立てその回りを船型の丈夫なシートで覆うタイプのもの。ぼくのはインフレータブルカヌーといって、はっきり言えばゴムボートだ。専用の空気入れでシュコシュコと空気を入れればセッティングは完了。荷物をポリ袋に入れたり、シートの位置の調整をしても、15分くらいで準備が終わる。ちなみに製品名は、グラブナー社の「アミーゴ」という。2人乗り(専用シートを着ければ1人乗りも可)で最大積載量300キロだ。
 ひとり組み立てを終えて、トイレに行ったり一服したりしていると、
 「先に降ろして一漕ぎしてこいよ」
と内田に言われる。うん、そうしたいのだけど、このあとどうしていいのかわからないんだよ。
 ゴムボートとはいえ、全長が4メートルくらいある船だ。これはどうやって運べばいいのか。降ろすのにしくじって沖に流したりしたらシャレにならんぞ。それに、ちょうど降ろしやすい場所にいる釣り人にはどう声をかけたらいいのだろう?
 まごまごしてたら、内田が自分の船の組み立ての手を止めて、しょうがねえなという感じで手伝ってくれた。

 無事船を水に浮かべ、ヨイショっと乗り込む。初めて乗る自分のカヌー。いい加減に乗り込んだのに、ひっくり返る気配はない。安定性は充分だ。全体がエアークッションみたいなものだから、座った感じもなかなかだ。こりゃいいわ。
 組み立て途中の2人に見送られて、いざ出航。
 これまでにも、彼らとキャンプに行った折りに、カヌーを借りて1人で漕いだことがある。その要領で漕げるだろうと思っていたら、甘かった。
 インフレータブルカヌーは操舵性に劣ると噂には聞いていた。つまり、水の上にすっかり浮かぶような形状なので、風が吹けば流されるし、水を切って進むわけじゃないから推進力も劣る。そこまでは覚悟していたが、思った以上にくるくる回るのだ。右で漕げば左を向くし、左を漕げば右を向く。ぼくは右手のほうが強いから船は左へ左へと回転する。そのうちに風に流されて、見当違いのほうに向かっていく。
 沖に向かうと帰ってこれないのではと怖くなり、ほうほうの体で岸まで戻ってきた。
 「もう帰ってきたのかよ」と悪態をつかれるが仕方ない。こんな次第だと言い訳すると、「予備のパドルを持ってきたから、それを船腹にガムテープでくっつけとけ」とアドバイスをいただいた。パドルの先が水につくようにしておけば、それが抵抗となって左右のぶれが防げるという。
 そんなちょっとしたことで違うのかなと、半信半疑でくっつけてみたら、あら不思議、くるくる回りが収まって、まがりなりにも前に進めるようになった。さすが内田は言わせろカヌー部部長、仲間内で一番経験豊富なだけはある。こういう時のヤツの意見は素直に伺うものだ。パドルを船腹にくっつけたアミーゴは不格好だけど、今日のところはやむをえない。

 やがて組み立てを終えた2人が艇を降ろして、いよいよ亀山湖探索に出発だ。
 2人の艇は早い早い。同じペースで漕いでいるつもりなのに、みるみるうちに離されていく。気持ちは焦れど先に進まない。場数を踏んでいる彼らに比べれば、ぼくは素人に毛が生えたようなものだから、技術の差があるのは当然だ。それにしてもこの差はなんだ。アミーゴどうした、もっとがんばれ、という気分。
 あんまり離れたからだろうか、はるか先方で2人が休んでいる。待ってくれよぅ〜と必死に漕いで、ようやく追いつけば、「やっときたぜ」とばかりに漕ぎ出していく。再び待ってくれよぅ〜で休む間がない。しまいには肩が痛くなってきた。ふだん茶碗より重いものを持たない生活をしているから、急に運動すればどこかを痛める。しょうがねえや、無理に追いつくのはやーめた、と居直って、あとからトロトロ着いていくことにした。
 長袖シャツの上にゴムカッパを着て、ライフジャケットを身にまとうという防寒防水体制だったが、暑くて汗が噴き出してきた。とても11月中旬とは思えない日差しの強さだ。この日は最高気温が20度くらいまで上がったそうだ。お天道様もアミーゴの進水式を祝ってくれたんだろう。
 湖畔の紅葉はまだこれからという感じ。それが少し残念だが、焦げかかった山に気の早いもみじが紅葉している風情もなかなかいい。風はおさまり、水面はおだやか。漕ぐのを休めば船は止まり、あたりは静寂に包まれる。時間の流れが止まったみたいだ。

 亀山湖は渓谷をせき止めたダム湖のため、谷間のように幅の狭い湖面が東西に広がっている。カーブを曲がるたびに風景が変わり、目を楽しませる。カヌー界の大御所・野田知佑さんは、ずっと以前にこの湖畔に住み着いて遊んだそうだ。これだけ変化に富んだ湖だもの、腰を据えて漕げばおもしろいだろうな、と納得する。
 もっとも、その当時に比べれば、湖畔の環境はひどくなったという。だいたい、駐車場・東屋・トイレ完備で芝生張り、しかも水に落ちないように柵を設けた広場があちこちにあるのだから、ほとんど管理公園だ。昼食休憩で上陸した広場には船着き場があるが、これはカヌー用なんかじゃなくて、ブラックバスを釣る人々のボート(バスボート)が乗り降りする場所だろう。
 バスの全国的な蔓延ぶりは、釣り好きのぼくも目を覆いたくなるほどだ。バスが在来魚を食べてしまうのも大問題だし、どこへ行っても釣り人が放置するテグス(釣り糸)は醜悪で危険、ところ構わず捨てていくゴミもひどい。ここ亀山湖も例外ではなかった。漕いでいてすれ違う幾多のバスボートといさかいを起こすつもりはないが、彼らとは仲良くできそうにない。(『ブラックバスがメダカを食う』秋月岩魚著、宝島新書をぜひご一読願いたい)

 話がそれた。バスじゃなくてアミーゴだ。漕ぎ出してから小一時間、いやもっとだろうか、湖を西へ西へと漕いで行き、先輩方が「ウメにも見せてやりたい」とおっしゃる岩がえぐれて洞窟状になっているところまでたどり着いた。そこで木の枝やらゴミやらが水に浮いた吹き溜まりに行く手を阻まれたので、しばし奇観を愛でてから引き返す。
 途中にあった湖畔の公園に上陸して昼食休憩。陸に上がれば、まずはビールだ。何とかついてこれてよかった。昼飯はコッペパンにハムとチーズを挟むだけのサンドイッチ。これは空腹の身には美味かった。レトルトのナポリタンをぶっかけたスパゲティは、茹でるのに失敗して不味かった。でもいちおう腹は満タンになる。
 一休みしてたら、先輩方はなにやら相談をしている。午後も3時を過ぎると風が出てきて、寒い上に漕ぎにくくなるとのこと。もうそんな時間になっていたのだ。ここから出発点までみんなで漕いで戻る時間はないから、1艇だけ戻って車をここへ運んでくることになった。白羽の矢が立ったのは、撤収も簡単なぼくのアミーゴ。内田部長とぼくが乗り込み、一気に戻るという段取りだ。
 ぼくが前、内田が後ろに座って出発。2人で漕ぐとぐんぐん進む。内田の熟練の漕ぎっぷりは強力な推進力を生み出し、まるで違う船に乗っているかのような速度だ。しかもその圧倒的な力量からは、休むことを許さぬ迫力を感じる。ぼくは特訓を受けているかのようにひたすら漕いだ。この短時間のうちに、疲労度は推進力に比例すると思い知る。

 やっとの思いで出発点まで戻ってきたとき、1人で漕ぐ練習をするか、と部長に言われた。このときはもう、船腹のパドルははずしてあった。よし、今日1日漕いだ成果を試してみるかと、最後の一踏ん張りをすることにした。
 深呼吸をひとつ、パドルを右、左、右、左……。と、船はやっぱり旋回を始める。こうだよ、ああしなと言われ頑張ったけれど、やっぱりまっすぐは進まない。部長が模範演技をすると、するすると走っていくにもかかわらず。うーむ、この船とつきあっていくのは大変だ。
 ちょっとばかり落ち込んでいると、「くるっと向きが変わるのは、敏感に反応することの証拠。素直に言うことを聞くいい船だよ」と慰められた。なるほど、自分の技術さえ向上すれば、右へ左へと移動がたやすいということか。聞けば内田も、カヌースクールでこの手の船に乗って苦労したことがあるとか。こういう人の一言には含蓄がある。ぼくも腕を磨かねば、と前向きな気持ちになる。
 いい加減漕ぎ疲れたところで上陸。空気をシュウーッと抜けばあっという間に畳める。そいつを車に積み込んで、日差しの傾く公園で原君が待っている、急げ急げ。

 公園にてそれぞれの船を片づける。船内に飛び込んだ水や汚れを拭きつつ振り返れば、好天に恵まれ実に気分のいい進水式だった。疲労の具合も想像してたほどではなかった。カヌー一式を背負っての電車での移動も不可能でない。来年は何回こいつに乗るのかな……とアミーゴが愛おしくなり、拭く手も優しくなる。
 「暖かくなったら、こんどは川に挑戦だな」と内田。望むところよ。
 「川だと操舵が効かないから沈する(ひっくり返る)ぞ」と原君。それは望まないな。
 来年は、言わせろカヌー部の遠征だけでなく、うちのチビや細君も乗せてあげたい。だけど、チビを乗っけた船がくるくる回ったらカッコ悪いな……。
 なかば夢うつつの帰りの車の中で、気が早くもそんな心配をしていた。

(1999年12月・65号)

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