原発とゴミ問題



 1999年3月27日の毎日新聞朝刊に、意見広告が載っていた。

  終わりません。
  流すだけでは。

 そんなキャッチコピーの隣りに、水洗トイレを真上から撮った写真が大写しになっている。リードコピーにはこう書かれている。

  ヒトが生きるエネルギーを得るには、排泄物というゴミが出ます。流
  してしまえば見えなくなりますが、無くなった訳ではありません。
  「どこかで、誰かが」処理をしているのです。私たちの高度な生活を
  支えているエネルギーにもゴミ問題があります。例えば原子力発電に
  も放射性廃棄物というゴミが出ます。私たちの暮らしから出る「ゴミ」
  も「どこかで、誰かが」処理をしていかなくてはなりません。水に流
  せない、臭い物にフタというわけにもいかないこの問題、私たちみん
  なが考えていかなければならない、重大な「ゴミ問題」なのです。
  みんなで考えたい生活のゴミ問題−−高レベル放射性廃棄物

 そして、評論家の木元教子にインタビューする形式で、「原発からでる放射性廃棄物の処分問題も、生活ゴミの処理問題と同じく、私たちみんなで考えなければならない」という趣旨の意見を述べている。出稿元は、通商産業省資源エネルギー庁。
 腹が立った。本気で腹が立った。


 木元教子のインタビューは次のような内容だ。
(1)ゴミの処理は大きな問題だが、直接目に見えないものは自分自身の問題として捕らえられない。
(2)その代表が電気だ。電気を大量に消費している消費者は、発電後に生じる高レベル放射性廃棄物の問題を考えてこなかった。
(3)これまでの発電や当面の発電にともなって生ずる高レベル放射性廃棄物については、自分の問題として考えなくてはならない。

 一見ごもっともな意見だが、残念ながらぼくは同意できない。

 なぜならば、ぼくは「原発をつくってください」とお願いしたことはない。むしろ「原発は危険性があるからやめてくれ」とずっと思っている。「やめてくれ」と思うかどうかは別にしても、多くの人々が原発に少なからず不安を抱いているのは間違いないだろう。
 それなのに、これまで政府や電力会社は、「それじゃ、別の手だても考えましょう」と言ったことがあるか。

 電力会社は風力発電の実験施設をつくったりしているが、原発に比べればわずかな額しか費やしていない。替わりのエネルギー源を真剣に求める気概なんか、電力会社は持っていない。
「CO2を排出しないクリーンなエネルギーです」とは宣伝しても、「高レベル放射性廃棄物処理の問題」には一言も触れずに、あくまでも原発、原発でやってきた。

 ぼくはそんな会社から電気を買いたくないのだが、東京に住んでいるので東京電力としか契約できない。地域独占事業だからだ。「せめて火力発電所からの電気だけ使いたい」と申し出たところで、鼻先で笑われるだけ。電気の種類を分類して売るようなことは、電力会社はしていない。

 残る手段は、ぼくが自前で発電設備を持つことだが、アパート住まいではそれも無理だし、金もない。最近は、地域の人々が出資しあったり、公社のようなかたちで、風力発電の設備を構えるところもあるという。でも世田谷の用賀のあたりでそういうことが行われているとは耳にしない。

 つまり、「電気を使っているのは消費者」と言われても、その消費者には選択の余地が与えられていないのだ。いくら「いやだ」と言ったって、契約をすれば原発からの電気が自動的に流れてくるのだ。
 そこにつけ込んで、「電気のない生活に戻るか、原発を認めるか、どちらを選ぶのか」と、政府や電力会社や原発推進派の人々は、短絡的に決めつける。こんな馬鹿げた選択が、他にあるか。

 食べ物の問題に置き換えてみよう。たとえば東京の人々が食べるコメを「株式会社東京コメ」という会社が一手に作り、販売するとする。そのコメの大半は農薬漬けで、ごくごく一部に無農薬でつくったものもあるが、販売時には全部混ぜられる。
 そういうコメはぼくはいやだけど、東京に住んでいる限り、東北のコメは買えない。自分で田んぼを借りてコメ作りをすることもできない。
 そんな状況をつくりあげた上で、「コメを食うのをやめるか、農薬漬けを認めるか」と、消費者に選択を迫る……。

 そう考えれば、全部かゼロかを求める設問がいかにくだらないかがわかるだろう。「原発以外の電気を使う」という選択肢だってあるじゃないか。

 生活ゴミの問題は、たとえば買い物するときに簡易包装の商品を選ぶとか、野菜くずも無駄にしないで食べるとか、選択や工夫で対処もできる。
 しかし、放射性廃棄物の処理問題は、もともとぼくたちには対処のしようがない。
 そのへんをごちゃごちゃにして、「消費者はゴミ問題を考えろ」と言われたって困る。
 まして、そう言っているのが、原発政策を推し進めてきた当の資源エネルギー庁だ(正しくは、エネ庁が金を出した意見広告で木元教子が述べている)。
 居直るのはやめてほしい。

 エネ庁は、まず自分たちの原発政策について省みなければいけない。そこから生みだされる放射性廃棄物を処理する手だても考えもしないで、原発だけは次々と建設してきた。その他のエネルギー源についてはほとんど無視してきた。
「過疎地の振興」という名目で、住む人が少ない地域に原発を建て、反対する人のほっぺたを札束でひっぱたいて黙らせてきた。
 もんじゅをはじめ危険な事故が起こっても、その事故を真摯に受け止めようとはしない。
 その間にも放射性廃棄物はどんどん生みだされ、ドラム缶に詰めて置いていたら、ドラム缶が腐って液漏れしていた。
 そしていよいよ放射性廃棄物問題から目をそらせなくなったら、「ゴミ問題はみんなで考えろ」と言い始める。

「いろいろ考えてみたが、打つ手がありません。問題を先送りしてきてごめんなさい。みなさんの知恵を貸してください」と、反省を込めて述べるならまだ許せる。そんな謙虚さはまったくなく、「みんなの問題だ」と居丈高にのたまう。
 ふざけるのもいい加減にしろ、だ。


 この際だから記しておこう。はっきりいって原発はいらない。減らすことだって充分に可能だ。少なくとも今よりも増やす必要性は薄い。
 電力会社や政府が発表する数字によれば、いま発電される電気の3分の1は原発によるものだ。「この電気がなくなったら、困るじゃないか」と思う人もいるだろう。

 でも、決してそんなことはない。原発も火力も水力もフルに動かして発電しないといけないのは、真夏の昼間のほんの何十分かだけなのだ。この部分(ピーク電力という)をまかなうために、発電施設を増やしてきた。だから、ピーク時以外には発電施設は遊んでいる。電気は余っているのだ。

 真夏の昼間、喫茶店やデパート、鉄道車内は、上着が欲しいくらいに冷房が効いている。こういう無駄を見直してピーク電力を引き下げれば、いまある発電施設を減らしたところで影響はない。家庭や企業、お店での省エネの徹底や、冷房設備の性能向上など、手をつける部分はいくらも残されている。
 そういう手だてを考えないで、「エネルギー消費は増えざるを得ない」(意見広告から)と結論づけるのは、怠慢としかいいようがない。原発も火力もダムも含めて、発電所を増設しなくてもやっていくことはできるのだ。 

 放射性廃棄物について語るならば、どうすれば放射性廃棄物を減らせるか、要するに「どうすれば原発を増やさないで済ませられるか」という視点も不可欠だ。それを抜きにした意見広告なんか、説得力もなにもありゃしない。ぼくたち一人一人に原発の責任を押しつけようとする、エネ庁の無責任体質が見えるだけだ。
 そうして、「どうしようもない」と思わせておいて、結論として、「誰かが放射性廃棄物の危険を負わなければならない」「どこかに最終処分場をつくらなくてはいけない」という世論をつくり上げたいのだ。

 こんなくだらない意見広告に惑わされてはいけない。ぼくたちがまず考えないといけないのは、放射性廃棄物の処理問題ではなく、どうしても原発でなければならないのか、他にとるべき手段はないかということだ。もっといえば、原発のない社会をどうつくり出していくか、だ。
 ぼくたちに責任があるとすれば、それは、原発を造るのを許してきたこと、原発というものに無関心であったことだ。「放射性廃棄物の処理問題を考えなかったこと」ではない。


 とはいえ、せっかくエネ庁が放射性廃棄物の処理を問題視したのだから、この機会にみんなで主張しようじゃないか。
 放射性廃棄物をこれ以上増やさないためにも、まず原発をやめにしよう。それに替えて、太陽光や風力、潮力などの発電施設を増やしていこう。そういう考えに立って、既にある放射性廃棄物や、原発を破棄したときに生じる廃棄物の処分の問題を考えていこう。
 ついては、考えるための材料として、これまでの事故や危険性も含めて、一切合切の情報を公開してもらおう。ぼくらも考えるようにするから、ぼくらの意見をきちんと聞くようエネ庁に念を押しておこう。
 これが現時点でとりあえずとるべき選択だと思うが、いかがだろうか。

(1999年4月・61号)

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