行為の暴力かことばの暴力か



「じゃまだよ、通れないよ」
と、そのクルマの運転手に言ってやった。
 ぼくは片側3車線の幹線道路を自転車で渡ろうと、横断歩道の手前で待っていた。目の前は、横断歩道に乗り上げて信号待ちしているワンボックスカー。
「通ってんじゃん」
 睨まれるだけだと思ったいたら、20歳代なかばと見える運転手は、横柄な口調で言い返してきた。
「横断歩道をふさいでるだろ」
「ちゃんと通ってんじゃんかよ」
 ひとを迂回させておいて、よくもまあ、とムッとした。
「そういうことじゃないだろ。もう少し下がったらどうだよ」
 すると、隣に停まっていた、やはり横断歩道に乗り上げていたRV車の運転手も口を出してきた。
「ここに停まってんだから、しょうがねえだろ」
 意味がわからん。どうもワンボックスカーの運転手の助太刀のようだ。こいつら仲間か、と2人を交互に見たが、たまたま隣り合わせただけのようだった。
 こんな話の通じない連中と口論をしていたら、横断歩道の途中で信号が変わってしまう。“ったく、話になんないよ”とひとりごちて、ぼくはその場を去った。またもや、気分の悪い思いをしてしまった。


 そのしばらく前、二車線道路のガードレールのない歩道を歩いていたときのこと。乗用車が車体を歩道に乗り上げて停車していた。しかも歩道側の後部座席のドアが全開なので、ぼくは通せんぼされてしまった。恐い思いをしてでも車道を迂回しろということなのか。
「おじさん、これじゃ通れないよ」
と、50歳くらいの男性に声をかけた。
「荷物を降ろしてるだけだよ」
 変なものをみるような顔で、おじさんはそういった。
「ここは人が歩くところでしょ。これじゃ、通れないよ」
 続けて言うと、おじさん、みるみる不快そうな顔になり、
「ちょっとの間だけだろ」
と言い放った。ぼくも腹が立ってきた。
「ちょっとの間だけなら、車道に停めなさいよ」
 おじさんは「なにを!」と言いこっちを睨みながら、降ろした段ボール箱を抱えて建物に入っていった。こっちも相手の姿が見えなくなるまでじっと睨んでやった。
 その後半日、むかむかした気分だけが残った。


 ぼくは日頃から、クルマという乗り物の運転手に対して、敵意に近い感情を抱いている。
 クルマの便利さを否定するのではない。運転手一人ひとりの人間性がどうのとか、クルマなんかなくしてしまえ、というのでもない。
 生身の人間にぶつければ大怪我をさせ、命を奪うこともあるのに、そういう自覚を持たずに安易に運転している人があまりに多すぎる。そして、「歩行者に注意を払う」「『大丈夫だろう』という意識は持たない」「交通ルールを守る」と教習所で叩き込まれたにもかかわらず、ひとたび免許証を手にしてしまうと、お目付役がいないものだから、クルマ(自分)中心の振る舞いをする。そういうお気楽さ、身勝手さが腹立たしいのだ。

 歩行者か自転車の立場がほとんどのぼくは、これまでに何度も何度も、それこそ数え切れないほど、クルマに嫌な思いをさせられてきた。
 渡ろうとしている横断歩道上にクルマがいることは珍しくない。
 歩道をすっかりふさいでいる駐車車両も珍しくない。
 雨の日に水しぶきをかけられることもしばしばだ。
 狭い道を横断していれば、遠くから減速しないで走ってきたクルマにクラクションを鳴らされる。
 一時停止を無視して飛び出してきたクルマとは接触しそうになる。
 信号のない横断歩道ではクルマの流れが途切れるまで待たされる。
 狭い道を走るクルマはスレスレにすれ違う(よろけたらおだぶつだ)。
 ぼくの行く手をふさぐようにわざわざ目の前にクルマを停める。
 クルマどうしすれ違おうとして、ぼくに気づかずに幅寄せしてくる。
 こちらが身を引かなければ接触するような危険な曲がり方をする。
 青信号で渡っている目の前を強引に横切っていく。
 そんな場面に、これまで無数に出会ってきた。危険な目に何度も遭った。

 しかし、ぼくに嫌な思いをさせた当の運転手は、ぼくが怒りや不快感を抱いたことに気づいてない。歩行者の気持ちに意識が及ばない。それが現実だ。

 こんなふうになってしまうのは、個々の運転手の資質というよりは、道路の構造や交通システムのあり方にそもそもの問題があると思っている。だから、いちいち文句を言ったりするのは控えていた。
 でも、我慢するにも限界がある。娘が育つにつれ、彼女が事故に巻き込まれるのではという危機感も強くなってきた。いつまでも黙ってはいられない。
 そういう意識があって、折りがあれば運転手に声をかけ、言うことは言うようにしたのだ。
 声をかければわかってくれる人も確実にいる。感触では、納得するか渋々かはともかくとして、5人に1人はぼくの言い分に応じてくれる。残りの4人のうち、3人は無視する人。残りの1人が逆上する人だ。


 ことばというのは意思疎通のための手段だ。あることばが発せられたり書かれたりする場面には、そのことばが用いられる背景なり状況がある。
 それを話し手と聞き手、書き手と読み手の両方が了解しているとき、ことばの意味は正しく相手に伝わる。了解されていなければ、交わされることばは意思疎通の役には立たず、相手の態度や言葉尻だけをとらえた不毛なやりとりに終わってしまう。

 ぼくとクルマ運転手との関係で考えれば、ぼくが運転手に声をかけないではいられない背景を理解する人が、5人中1人はいることになる。のこりの4人は、理解できないか、理解はしても納得できない。
 そういう人は、こちらが文句を言ったとしても、不意打ちを食らったように感じ、「難癖をつけてきた」「細かいことでガタガタ言っている」と反撥したくなるだろう。そして、そんな人たちにとっては、ぼくのことばは暴力性を帯びて伝わっているのだろう。
 自分自身が実際に行っている行為の暴力性については省みることもないまま、そう思うのだろう。


 いま人々に不足しているのは想像力だ。社会問題について考えるにしても、人と人とのつきあいにおいても、先々を見通す力、相手の考えを想像する力が足りない。そもそも想像する、つまり考えるということをしない、したくないのかもしれない。
 ぼくも偉そうに言えた義理ではないが、クルマ運転手に対しては、かなりの想像力を発揮して相手の気持ちを考えている。
 ぼくも免許証を持っているし、たまにクルマを運転することもある。だから、渋滞中に身動きとれないでイライラしているのに、横断歩道の上に乗り上げたくらいしょうがないじゃないか、と反撥するのもわかる。歩道にクルマを停めるったって、ほんのちょっとのことじゃないか、というのもわかる。なのに文句を言うなんて、うっとうしいなと思うのもわかっている。
 にもかかわらず口出しするのは、なぜささいなことであいつ(ぼく)は文句を言ってくるのか、なぜ自分が文句を言われるのか、そこを考えてほしいからだ。

 横断歩道や歩道というのは、人間が歩くところで、クルマを停めるところではない。
 もし仮に、車道に人がいて立ち話をしていたり、座り込んでいたら、クルマの運転手はどう思うか。ジャマだよ、どけよバカヤロー、と腹が立つに違いない。そして、そんなジャマな相手に「しょうがねえだろ」「迂回して通れるんだからいいじゃんか」「ちょっとの間だよ」と言い返されたらどうなんだ。

 ぼくが声をかけたとき、すぐにクルマを動かさなくても構わない。「わりぃな、こんどから気をつけるよ」でも、「ゴメンよ、すぐ動かすから今は勘弁して」でも、こちらの気持ちをおもんぱかった一言を返してくれれば気は治まるのだ。
 生身の人間に対して圧倒的に強い立場にあるクルマを運転する以上、そういう謙虚な気持ちをもってほしい、ということだ。
 この程度の想像力すら持っていない人間は、クルマを運転する資格はない。


 冒頭の2つの場面は、どちらも、お互いに不快な感情が残る不毛なやりとりで終わっている。本当はその場で議論ができればいいのだけど、あの状況で道ばたで冷静に話し合うのは無理だろう。
 そうして結局、しこりを残したわけだけど、それでもぼくは、不毛なやりとりをしたことを悔やんでいない。
 ワンボックスの運転手にしても、荷下ろしのおじさんにしても、ぼくが声をかけなかったら、横断歩道や歩道をふさぐという行為が歩行者にとっては迷惑だと、意識することはなかっただろう。
 2人の反応を見る限り、ぼくに言われたからと自分の落ち度を認めることはないだろうが、今後似たような場面に出会えば、以前に感じた不快感を思い出すくらいのことはあるはずだ。そして、また何か言われると面倒だから横断歩道に気をつけよう、歩道に乗らないようにしよう、と意識することがあればしめたものだ。そう割り切っている。


 先日知り合いから、「このご時世、直接意見するのは危険だからやめたほうがいい」と忠言された。たしかに、ことばのやりとりを経ないでいきなり殴り合いになったケースを、実際に目にしたこともある。直接声かけはリスクが大きいかも知れない。
 ぼくとしては、行為としての暴力を避けるためにことばの力(暴力とは思っていない)に頼っているつもりだ。
 しかし、いまはこういう発想が通用しない時代だと、ぼくもあなたも心していないといけないだろう。

(2001年4月・73号・テーマ「言葉の暴力」)

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