自分史は「記録」である
なぜ記録するのか
必ずしもドラマはいらない
アマチュアの作品にも味がある

自分史は「記録」である
プロの文筆家は、目的をもって文章を書きます。
 大ざっぱにいえば、小説家は芸術作品として文章を書き、記者は読者に伝えるべき事象を文章にまとめ、エッセイストは独自の視点で社会の現象を斬るために文章を書きます。
 では、プロでない人が自分史を書く目的は何でしょうか。
 それは、作者自身の生きてきた歩みを記録として残すこと、あるいはその人の考え方や思想の変化を記録することです。
 この世の中に一人しかいないその人がどんな生活をしてきたのか。節目ごとにどういう判断をしたのか。どんなことに喜びを見出し、悲しみを抱き、怒りを覚えたのか。どういう生活ぶりをして、何を考えてきたのか。そういったもろもろを記録するのが、自分史の目的だと、私は考えています。
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なぜ記録するのか
個人が記録を残す目的は、自身の来し方を後の世代、または同様な立場にある方に残し伝えることです。
 一例として、戦争体験について考えましょう。
 いろいろな分野でいろいろな方法により戦争の記録が残されています。そのどれもが無数の事実の一断面です。それらはどれも大事なものですが、より身近な人の、より切実な体験は、たんなる記録を超えて、読む者に大きな共感を呼び起こすことになるのではないでしょうか。
 あなたのご親族やお知り合いが、戦地で目撃したこと、戦火を逃げまどったこと、戦後の空腹に悩まされたこと、それを乗り切って安寧を得たことなどは、見ず知らずの作家が書いた戦争文学よりも、実感を伴って伝わってくるはずです。
 もちろん、作家の手による文学には作品としての意味があります。でも、そこでは掬いきれない、無数の人々の息吹が、同じ時代に存在しました。その息吹を、後の世代に、あるいは同世代でも立場が違う人に、それぞれ伝えていくことは、より広い意味で戦争を記録することになるはずです。文章として残すことによって、「たった一人の記憶」が「みんなの記録」になるのです。そして、「みんなの記録」は、次の世代に知恵として残されていくのです。

 これは、例えば育児日記にしても同じです。初めての赤ちゃんを得た喜びの中にも、とまどい、悩んだことが多々あるはずです。そしてそれは、他の多くの人にも共通するとまどいや悩みです。そうした体験を、文章という形で共有することができれば、育児にあたり不安が減るでしょうし、「みんながそうだったんだ」と知ることで心に余裕が生まれます。そしてまた、その赤ちゃんがやがて成人したとき、かつての自分を知ることができれば、我が子を得たときのまなざしにもつながるでしょう。
 このような体験の共有、意識の共有は、人々の心に豊かさを与えるためにも意味があると、私は考えるのです。
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必ずしもドラマはいらない
「本をつくってみたいけど、小説は書けないし、自分の人生には戦争体験みたいなドラマはないし……」とおっしゃる方がいました。
 でも、はっきりいえば、文章のアマチュアがいくらドラマを描こうとしても、プロの作家にかなうはずがありません。アマチュアが文章を書くときに必要なのは、正直に、素直に書くことだけです。始めに述べたとおり、プロとアマとでは、文章を書く目的が異なるのです。

 ドラマがないとはいっても、誰でも何十年生きてきたなかで無数の体験をしています。子どもの頃に家が貧しくて苦労したとか、両親が共働きで寂しい思いをした、入試に失敗してしばらく悩んだ、両親に結婚を反対された、子どもができたときの喜びと不安、これまでやってきた仕事の記録、趣味として続けてきたこと、いまの自分の日常の出来事……と、一つ一つの体験は平凡であっても、同じときに同じ考えをして同じ選択をした人は誰一人としていません。どれもその人ただ一人だけの軌跡であり、人生なのです。
 「なぜ、お父さんとお母さんは結婚したの?」と、ご両親に尋ねたことはありませんか。ご両親にとっては、パートナーを選んだ理由は平凡なものであったとしても、子どもとしては知りたいことの一つでしょう。そして、知ることによってご両親に対する理解が深まるはずです。そうした話から、ご両親の考え方や、生きてきた時代背景やなどへの理解も増していくのではないでしょうか。

 平凡な人生を過ごしてきたなら、それでいいではありませんか。「平凡だったけれども、これが自分の足跡だ」と胸を張って言えるのは、幸せなことだと思います。
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アマチュアの作品にも味がある
私はこれまでに、新聞などへの投書を続けてきた方の投稿集、短編小説集、句集、短歌集など、作品をまとめた本の自費出版に関わってきました。
 どれも文章のプロ、芸術のプロの作品ではありませんから、出来がどうこうは問題でありません。プロの作家の本に並べて書店で売ろうというなら別ですが、そうでなければ、たとえ稚拙な部分があったとしても、その作者の感性や人柄が表現されていればよいのだと、私は考えています。作品集という形態も、作品という形に作者自身を投影した記録に他ならないと思うからです。

 もっとも、こうした作品集を手にすると、ハッとするような文章に出会うことがしばしばあります。
 飲み屋のご主人が、これまで出会ってきた板前さんやお客さんのエピソードを基にして、小説風にまとめた文章を自費出版しました。これなどは、文章構成も「てにをは」の使い方も型破りだし、話の途中で別のエピソードに脱線していったりして、文章としては読みにくいものです。でも、形容表現の豊かさと個性あふれる登場人物の描写は見事で、読者を小説の世界にぐいぐい引き込んでいく勢いがあります。
 聞けば作者はそれまで「文章なんか、書いたことないよ」とのこと。そのために逆に型や文法にとらわれることなく、独特の世界を作り上げることに成功しています。

 誰にでも独特な感性があり、それぞれの視点があります。それをより多くの人に受け入れられる(つまり「売れる」)作品に仕上げるのがプロの作家です。売り上げとか技巧とかの呪縛にとらわれる必要がなく、自由に表現することが許されるのが、アマチュアの特権、利点だと思います。
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